希望は持っとけ 10歳を過ぎた君に

男の子が知りたくても誰も教えてくれない事、未来から過去の自分自身とこれを読んでくれるあなたへ

友達の選び方

岩谷時子先生が作詞された曲の世界観は、小学校・中学校を通して私たちの少年時代を穏やかに照らしてくれました。

高校時代を過ぎても、この方の世界観で救われたことは、

一度や二度ではありません。

 

もう亡くなられてしまいましたが、生き様や歌詞にこめられた思いを繰り返し思い出し、少年時代の思い出を大切にしていきます、これからも。

 

ともだちはいいもんだ


~ともだちはいいもんだ~ 歌詞付き

 

別に音楽の授業の話ではありませんが、結局はその話になってしまうかもしれません。

確かに友達は必要ですけど、小学校1年生の頃は本当に友達らしい友達を作れず、周囲をヒヤヒヤさせていました。

だからこそ、友達の選び方については間違えて欲しくないんですよ。

 

一年生になったら って曲で、胸がときめいたんです

通っていた保育園では1クラスがせいぜい20人ぐらい。

3学年あったけどあわせても60人ぐらい。

小さな保育園でした。

 

お遊戯の時間によく、一年生になったらって曲を歌いました。

100人友達が出来るってイメージが良く分からなかったんですが、100人出来たら楽しいんだろうなって思ったんですけど、小学校に入ったらイメージと全然違う。

 

教室、デカイ。

知らない人、いっぱいいる。

やったことないこと、毎日いっぱいやってる。

 

全てにおいてそれまでの価値観とか友達とか、木っ端微塵(こっぱみじん)に砕かれた訳です。

そこから少しずつ友達になっていく訳なんですけど、結局友達の友達が良いかどうかも分からず、とりあえず嗅覚(きゅうかく=においを感じる)だけで何とかしていた気がします。

 

その子の家の臭いが、自分と合っているかどうか。

人間が良くても、家が散らかっていなくても、合わない臭いの家・・・ってやっぱりありますしね。

今となってはかなりいい加減な工事をしていた家か、家族が病気持ちだったんだろうなぁって思っています。

 

10歳ぐらいになってくると人付き合いも決して下手ではなかったので、その時点で何かアドバイスを与える余地も無いんですが・・・

その後に転機もあったのでこれだけは言っておかないといけません。

 

仲が良くなった途端に、駄目な部分が見えてくる

それを改善してくれる相手かどうかが、友達の選び方だ

ってね。

 

助言なのか、嫌味なのか、それとも?

今から言う事は恐らく、2025年以降により意味を増してくると思うことなんですけど、友情と言う概念(がいねん=ものごとの捉え方・考え方)が更に尖って(とがって=ツンツンしてくる・鋭くなってくる)くるようになるはずです。

 

どう言うことか。

 

例えばインターネット一つとっても、友達になってくれる人は多いはずです。

ただその友達にも、あなた自身にも、下手だったり苦手だったり、弱い心の部分があったりします。

あとは教えてもらったけど勘違いして憶えていたりとか。

そう言うときに、注意をしてくれるのが友達の役目でもあるんです。

問題は「何のために注意をするの?」ってこと。

これは少年時代の私自身にもちゃんと伝えなきゃいけないことだと思います。

 

一見すると注意をするってことは、良い事ばかりではありません。

嫌われることもあれば、ケンカになる事もある。

 

これは大人が悩む「人間関係」でも言えることですが、性格や考え方が合う人ばかりじゃないんです。

合わない人が圧倒的に多い。

 

それなのに、性格が合わない人と上手くやらなきゃいけないって言うのは、どうすればいいんでしょうね。

 

と質問したら、少年時代の私なら100%こう言います。

 

 そんなヤツと友達になろうとするだけ、時間の無駄だ!

 

友達には何を言っても良いって訳じゃありませんが、その壁を勝手に壊す奴が居ます。

最終的に中学校時代にそこまで交友関係を拡げなかったんですが、その分岐点になる考えがやはり「注意すること」に対する意識の違いだったんですね。

 

10歳の頃の自分自身に噛み砕いて説明するとなると、ちょっと難しい部分はありますがざっくりと言ってみましょうか。

 

  • 助言
  • 嫌味
  • 指導、しかもオーダーメイド(あなただけにあわせた最良のやり方で指導すると言う事)

 

まず注意をされて、嬉しくなるワケじゃありません。

腹が立ったり、ムカついたりします。

でもそれじゃ、そもそも注意したうちに入らないですよ。

注意する側もヘタクソだし、聞く側だってまだヘタクソなんです。

しかも注意する側は、改善する方法までヘタクソ。

だから、それはむしろ「嫌味(イヤミ)」でしかありません。

友達だからと言って嫌味しか言えない様な人間は、成長もそんなにはしてくれません。何より、嫌味を言う相手の成長を止めます。少なくともアクセルではなく、ブレーキをかけてくれますよ。

 

これが改善する方法が上手かったら別なんです。

「助言(じょげん)」と言うものです。

ただしこれも、嫌味になってしまう可能性を残しています。

友達ならせめて助言をしてくれるレベルが欲しいんですが、助言するレベルでは友達でもない・・・と言う事に少年時代の私自身は気付いていたのです。

 

そう、明確に「コーチング(指導)を、オーダーメイドでしてくれる」のが友達に選ぶ相手なんです。

本来はそれが仕事になり、報酬(ほうしゅう=働いてくれる事に対してお金を払う事)が発生するものなんですが、友達ならせめてそれが上手い人間を選ぼうよって事なんです。

気が付いたら良くない部分や弱い部分がなくなっているのが理想。

それにお金を払うかどうかは、また別の話です。

 

私を指導できなかった、中学校時代のワルな同級生

実は中学校時代の友人の中に、別の小学校だった同級生が何人かいました。

彼らの趣味は私たちとは合わないものが多く、いわゆる見た目は普通でも十分「ワル」な奴らでした。本当に友達になるべきなのか悩んだ時期もありました。

結論からすると、彼らとは必要以上には仲良くならなかったんです。

 

まず、お金が掛かる。

カラオケ行ったりとかするにしても、少ないお小遣いでやりくりしている中では、大量の出費を平気で要求するのです。

それだけ支払って楽しい気分になったり、付き合っていくことで勉強になるなら良いんですけど、そう言うのが一切なかった。

 

それから、趣味が合わなさ過ぎました。

暇をもてあますような地域柄だったのも合わなかったですね。

勉強もせず夜中に集まって、しゃべるだけ、たむろするだけ。

たまにその中のメンバーが、隣の学区域と小競り合いをしてボロ負けしてましたね。

 

そんな彼らに、この夜に集まる時間が勿体無い!って怒った事がありました。

相手にしてみりゃこの無駄な時間が、家庭での居場所が無いだけに大切だったと言う信念があったみたいですが、その時間があるなら私は予習や復習など勉強を進めたかったですし、その当時のテレビでも見ていた方がアンテナが磨かれて良かったですよ。

テレビマンの希望が無くなる様子が、手に取るようにわかった時代でしたしね。

 

だから学校内では力を合わせたり助け合ったりすることはあっても、プライベートでは足手まといになるとしか考えられませんでしたよ。

 

後日談ですが、中学校の近くでボヤがあったんです。

第一発見者になったのはワルな同級生だったんですが「放火したんじゃないかって、警察からずっと疑われた。Tako、警察って酷いよな」と文句を言ってました。

制度の問題ではなく『そらそうだろうよ、放火したと思われる要素をお前は一切棄てようとしなかっただろ?』と言いましたよ。

こう言う事態にあって、始めて痛感するようじゃ遅いんだって。

それでケンカにもなりましたが『疑われない領域(ゾーン)に早くくれば良いだけなんだよ、そのためには・・・

・タバコを吸わない、ライターを持ち歩かない

・用も無いのに夕方以降の公園でたむろしない

・どうせ会うならせめて一緒に筋トレするとか、何か目的を持てよ』

と言った訳です。

どうも隣の小学校ではヤンチャ=男の勲章って言う雰囲気が強かったんですが、男らしいのは他の皆も認めてるのに、なんでタバコを吸う必要があるのか?って言うところに明確な答えを出せないで居るんですよね。

だったら『補導されてろよ、バカ』ってなりますし、いつでも『アイツとアイツはタバコ吸ってます』って言えるカードを持つことになってしまいました。

 

カードを使う場面が殆どこなかったのはせめてもの救いだったのかもしれませんし、タバコを吸うことが決して得策では無い&私の友達との縁も切れると言う事に気付けただけ良かったと思います。

同じ小学校から進んだ人の中で、私が仕入れたそう言う情報ってかなり貴重だったみたいです。理由は後述しますね、

 

・・・とまぁ、中学校でタバコを吸うってどうかしてんな、こいつ等は・・・って思いましたよ。

それで勉強が出来たりスポーツが上手く行くんならドンドンやれよって思いましたけど、実際には勉強も全然ダメで、スポーツも結構上手いはずなのに結果が出ないってところから抜け出せませんでしたからね。

 

彼らの世界観を理解するには、彼らが私を「正しく指導する」しかなかったんですが、タバコを吸って出来ない仲間同士でつるむ事を、どう指導するんだって話ですよ。

幸いな事に彼らに対する『いつでもチクれる』ってカードだけ持って、言う事を聞いてもらうと言う事には成功したので、それだけ適えば中学校時代では不自由がありませんでした。

 

音楽の根本先生、暁子先生、お元気ですか

中学校の音楽授業を担当してくれた暁子先生は、指導要領(しどうようりょう=先生が教えなくてはいけない教科の約束事)の大半を終わらせて、中学校を卒業する間近の私たちを指導するにあたり、このように言ってくれました。

丁度その年から卒業式で3年生が歌う曲が「旅立ちの日に」が採用された年でもありました。

一個上・二個上の学年は、音楽で何をやらせても上手かった。

合唱でも、吹奏楽でも。

そう言う先輩の後ろを追いかけていて、抜いたという感覚はなかったのですが、いつの間に追い抜いていたことを教えてくれた、たった一人の存在でした。

 

「私は、あなたたちの真剣な取り組みに感謝してます。

だからこそ、卒業まで僅かな期間で、合唱祭の課題曲をどうやって行こうか。

悩んでいます。

下の二年生や一年生と比較したくは無いんですが、あまりにも上手で、レベルが違いすぎて、

それこそ先輩方より皆さんの方が、遥かに上手かったんです。

正直、皆さんを指導するのが楽しくて仕方ないんです。

 

そんな皆さんに、簡単な合唱曲は歌わせたくないんです・・・。

だからと言って、難しい曲を満足行くまでに練習するだけの時間もありません。

受験を控える皆さんの負担にはなりたくありませんから・・・」

 

先生の思いを受け止めて私たちは答えました。

 

 妥協せずに難しい曲をぶつけて下さい。

 

私もその中で思いを伝えました。

 『あれだけの先輩を超えられたのであれば、先輩達への恩返しをするために難しい曲へ挑戦したい。

 その姿勢を後輩に見せておきたいです。

 それがこの中学校の伝統となるならば、この時期の苦労は望んで受けます』

 

みんなの思いと先生の考えは一致し、当時使用していた歌集にはなかった曲を引っ張ってきていただくことになりました。

練習時間が少ないから仕方なかったんですけど、私たちはこれまでやってきた曲を焼き直しすれば、それだけでも十分だったんですけどね。


【合唱曲】流れゆく雲を見つめて / 歌詞付き

 

学年全体がそんな間柄だったので、誰であっても足を引っ張る行動は許せなかったんですよね。仮に同級生でも、友達だとしても。

 

なんで音楽の合唱の話しがチョイチョイ出てくるのかと言うと、10歳の頃は小学校の音楽課の名物先生・根本先生の転任や別れと重なるからなんですね。

 

授業の最後はこの曲「クッデーグッバイ」を歌ってクールダウンするのが根本先生のやり方だったんですが、小学校4年生の最後の音楽授業の時、その時どことなく寂しそうな音色と表情で、これで終わってしまうんじゃないかと嫌な予感がしたものです。

 

演奏が終わって「みんな、5年生になっても音楽を楽しんでね」とやさしく声を掛けてもらいました。

いやいや、5年生になった時の音楽は地獄でしたよ。根本先生がいないこと以上に悲壮感ありましたもの。

6年生(一学年上)が行う鼓笛隊の演奏は圧巻の一言。上手すぎるし迫力あるし、それと比べたら私たちの学年は・・・ショボい。

音を大きく打ち鳴らす方法や経験だけが圧倒的に足りてなかったんです。

 

結果としては慣れと練習回数がなんとかしてくれたんですけど、そこに行くまでが不安と実力の無さでケチョンケチョンにされたのを今でも思い出します。

この頃に管楽器をもう少し入れようって動きが出ます。

私たちはその潮目にいたんですよね。

私も管楽器を扱う予定だったんですけど・・・これは他の回で登場したNさんに横から奪われてしまうんですよね。怒り狂ったのを覚えてますよ、今でも。

 

でも、これがNさんだったから良かった。

最後まで気を引き締めてないと、何が起きるか分からないと言うのが良い経験になりました。

(後日談でNさんに確認したところ、好きだった私と一緒に練習できると思って始めたのに、一緒に練習は出来ずに奪い取ってしまったとのこと。

Nさん、だから、小1の頃からそう言うところ余計なんだってば!)

※ちなみにやっている曲は違いますが、20年以上後の後輩が地元でパレードしているんですね。さすがYoutube、何でもあるな!(笑)

 

さて話はもどりますが、だからタイムマシンで戻るなら根本先生の授業は心の底から楽しんでおいてくれと釘を刺したいんですよね。

まぁ、そんなことをしなくてもTakowasabi少年はその時代、根本先生の授業は楽しい時間でしたし、音楽っていいもんだなぁという感性を十二分に育てていただいたように思います。

そのタネが前述の暁子先生によって、中学時代に花が開いたと信じてますし。


グッデーグッバイ/伊藤良一作詞 Good day Goodbye ピアノ演奏

 

今聞いてもサビの部分、良い歌詞だなぁ。

Good day,Good bye,

Good day,Good bye,my friend.

 

友達とは、良い日に、良いbyeをしようと。

良い日を壊すのは、何も良い事は無いと。

 

根本先生が歌わせてくれた「やさしい心 ありがとう」は、

いろんな人との出会いに今でも役に立っています。

暁子先生の言葉・思いは今でも心の支えになっています。

 

助言と指導を分かつ経験もありました

タバコを吸う同級生とは深い友達付き合いをしなかったことで、カードを持った私もさすがにカードを切らなきゃいけないのかと思う場面はありました。

ただ、思いもよらない展開でしたけどね。

 

生徒会の役員が渋い表情で、相談を持ちかけてくるんです。

小学校も同じだったら、ツーカーとまでは言わないですけど達ちゃんと言う生徒会役員が悩んでいるならってことで。

どうも一人だけ、自分本位な考えで予算を増額させたい委員会がある、と。

しかもテコでも動かないんだよなぁ・・・。

 

あー、ヤマダ委員長かぁ・・・。

『じゃあネタもあるから、話してくるわ。ひとまず承認のサインもらっておけばいいかかなぁ、達ちゃん?』

 

タバコを吸う同級生のことを好いていたヤマダ委員長。

あまり普段から接点があるわけじゃないんだけど、図書委員長としてはヤマダ委員長が図書室のヘビーユーザーだったことは良く知っていたので、部活を抜け出して図書室へ。

居たよ、ヤマダ委員長。

早速直談判。

『ヤマダさん。あなたの××委員会の増額予算、ウチ(私の図書委員会)らに回してくれない?』って言ってみますが、はぁ?って表情です。

そりゃそうだよなぁ。

 

大事な総会前の打ち合わせですが、ここは

『じゃあ、タバコ吸ってるの、先生にチクるしかないか。アナタの好きな、○○君のこと。

○○君にはあなたがそんな馬鹿な考えを改めないから、密告されたって言うしかないよ』って強気に出る場面でだけ、カードは役に立ちましたね。

実際には私の委員会じゃなくて、本当に予算が必要になっている部門に回したかったんですけど、ネックになっていた委員長があまり話がわかる人じゃなかった&なぜかタバコ吸ってるバカと付き合ってたんで、これはもう鴨がネギしょってるようなもんでしたよ。

仕方ありません。生徒会の言う事聞いてくれれば皆が笑顔になれるって話なのに。

 

その女性の委員長にしてみりゃ、なんで接点が殆ど無いはずのTakowasabiが知ってるんだ?って話でしょうけど、知っている上に悩んでいるのが生徒会副会長の達っちゃんなんだよ。

小学校の同級生でクラスが一緒だったこともある(フネ先生のクラスね)んだから、そりゃあ、戦友の頼みは断れませんって。

 

『で?どうするの?

まだ意地張るの?

意地張っても○○君に迷惑掛けるだけなんだよ?

第一この予算に関する話、○○君だって生徒会側の予算案が絶対良いじゃんって、賛同してくれるんだよ?

あなたが反対する理由って何?

増額しなくても前年度予算は同額確保されてるんだよ?』

と続けざまに質問して、納得していただきました。

 

あとでこのヤマダ委員長が私とは別の小学校だったので、小学校時代にどれだけの存在だったのか。生徒会の副会長である達ちゃんとはどう言う関係なのかも知るのでしたけどね・・・。

私の両親はPTAの有力どころと繋がっていましたから、親御さんの中では私の知りえた事はほぼリアルタイムに知られていたんですよ。

誰が暴走族と繋がってるかとか、誰がどこの器物損壊に関わっていたのかとか、タバコ吸って居るのが誰なのかも。

地域全体で足枷(あしかせ)とかを付けられてるんだから、少なくとも私を敵に回して変なことは出来ないってことですよ。

しかも親にバレたくない事も、すでに親や地域の偉い人にはちゃんとバレてるって言うのも独特でした。

その事に気づいてないのは子供だけって、普通は「子供の悪事の徴候を親が分からなかった」だから、逆なんですけどね。

 

ヤマダ委員長も私利私欲で動いていた訳じゃなく、結局のところは先輩から脅されてたのが大きかっただけなので、そこらへんもアフターフォローはしました。

『先輩、いくらなんでも卒業したんですから、マイナスになることは口出さないで下さいよー』ってね。 

 

そんな私が中学校を卒業した後、体育祭にお邪魔したらテント内の実行委員の仕事がなってなくて、急遽指導に回るハメに。

知っている先生から「Tako、部外者はそこまでやんなくて良いwww」とは言われましたが、これが暁子先生が嘆いていた差なのか・・・と痛感したものです。

実行委員は中2までかなり仕事できてたはずなんだけどなぁ、中3になったらこんなにもダメになるのか?って。

気が付けばアチコチで高校生のはずの同級生がお邪魔してるだけじゃなくて、後輩を指導してました。あらあら、これは酷いわ(笑)ってレベルの仕事がそこかしこに。

当時の中3(つまり一学年下)のアタマの回転速度は相当なものだったんですけど、イメージするとかイチからデザインするってことが本当に下手だったんですね。

これは関わった先生の違いもあるけど、ずいぶん私たちの学年に頼られて居たんだなぁと実感しました。私たちがヒントや指示で着火したから考えたり動けて居たのか、と。

 

友達には、求めるハードルを高くしよう

確かに友達って居れば助かることもあります。

ただ、中には友達だからと言う理由だけでエネルギーは勿論、時間とか知識とか見えない財産まで吸い尽くすような人も居ます。

私だってそう言った面が全く無い訳じゃありません。

 

だからこそ友達に求めるものを下げてはいけませんし、付き合う相手は選んで良いんだよと、10歳の頃の自分自身には再確認しておきたいですね。

 

もちろん中学校時代の自分自身にも、「遊ぶ事は仲良くなれなかったとしても、上手~く付き合えばいいんだからね」と声を掛けておきたいですね。

 

どうせ持つなら、あなた自身の考え方を分かりやすく知らず知らずのうちに誘導してくれて、正しく理解させてくれる人物を友達にしましょうよ。

もちろん、騙す事だけに特化した人間なんて、友達にする必要はありませんよ。

当然ですけどね。

(むしろ上手く騙す人って、誘導が中途半端に上手いですよねぇ。

詰めが甘くてコーチングが未熟だって感じさせる人も多いはずです。)

 

 

boys be aspiration

少年よ、希望は持っとけ

その通りの未来がやってくるから

スポーツはモテるようで、案外モテない

私はそんなに運動が好きでもなかったし、得意でもなかった。

運動会で駆けっこをしたら、確かに遅くはなかったぐらいで、スポーツが出来てモテる同級生が少し羨(うらや)ましかった。

 

でも、10歳の頃の私は、ちゃんと分かってた。

 

 スポーツで勝てても、モテるワケじゃない

 

だから勉強もほどほどで良いんだけど、スポーツに関しても「その競技が好きだったらやれば良い」ってことだけ。

やっているうちに自信が付くとかそう言う効果もあるんだけど、それよりもスポーツする事が億劫(おっくう=面倒臭い)だった子供の頃の私自身にもちゃんとメッセージを出しておきたいと思います。

 

教えるコーチがヘボなら、ヘボい選手しか生まない

まず、育った環境がよくなかった。

とにかく良いコーチが居ない。

どうやったら伸びるかと、どうやったら故障(ケガ)をしてしまうのか。

分かってる先生も居なけりゃ、少年野球のコーチもまったくの素人(しろうと)同然だった。

 

だから教えてもらって上手くなるんじゃなくて、回数重ねりゃそりゃそれぐらい出来るでしょうよ・・・ってレベルから、通っていた小学校は抜け出せないままで居た。

とにかく全国ってことを意識できるような環境ではなかった。

 

たまたま私は12歳の時に、スポーツでは無い環境で全国大会に行き赤っ恥を書く事にはなるんだけど、とにかくどこかと試合をすればボロ負け。

かっこいい先輩も居たけど、スポーツに関しては本当に胸を張れる様な世代も居なかったし、本当にウチの小学校はサッカーやっても野球やっても、バスケやってもなかなか上手く行かなかった。

(バスケだけは地区大会でそこそこ良いところ行くようになったけど、それも新しく着任してきた先生が来てからだったし)

 

優秀なコーチではなかったけど、怪我をしないようにするってことだったら小学校低学年時の教頭だった中尾先生ぐらいしか、本質がわかっている人は居なかったなぁ

超軍人式で怖い先生だったけど、良く中庭で走ってはコケまくって泣いていた私の動きを見ていて、この先生だけは他の先生には無い指導をしてもらった

 

 君は、転ぶ走り方をしている

 だから転んでしまうんだ

 

言われている意味が分からなかったし、毎週月曜日の朝礼で「起立!」「休め!」って号令で全校生徒が泣きそうになるぐらいの気迫だったので、ただ単に『怖いジジイに怒られている』ぐらいにしか考えてなかった。

 

しかも中尾先生からは「教えてどうにかなる状態じゃないほど、君の走り方が下手なんだ」と一蹴されてしまう。

ひとことだけ中尾先生から「もう少し身体が大きくなったら、すぐに身に付くようになる。だから今教えられなくて、すまない」って言葉をかけてもらった。

 

中尾先生のことは結局『怖いジジイ』『うるさいジジイ』だとしか思っていなかったんだけど、今になって振り返るとあの時「ああしろ」「こうしろ」と直接言われてたら、私は間違いなく運動が出来なさ過ぎる自分の事が嫌になって、不登校になっていたと思う。

それぐらい理に適っていた(りにかなっていた=物事の本質に沿っている)教え方が出来て、しかも区内でも一・二を争う厳しい先生だったから、小学校低学年ではその厳しさのレベルについてこられないのは仕方なかったはず。

 

その後、中尾先生は異動されたのか定年退職されたのかは定かではないが、任期を全うされて私の小学校からは去っていった。

この教頭先生を悪く言う人は居なかった。口は悪かったり威圧的な存在感もあったけど、とにかく自分に厳しい人だったし他人にも厳しい方だった。

弱いものいじめを徹底して許さない空気を作ってもらった教頭先生だった。

特に保護者・親の世代からの信頼感は抜群で、学校が工事で給食室が使えなかったり体育館が使えないって言う時代のやりくりを、先頭を切って全て行っていた先生だからすごい人だったんだと思う。

 

とまぁ、スポーツのことからは離れてしまったが、おそらく海軍上がりの先生だったはずなので、それぐらいのコーチに恵まれなかったのだ。

むしろそれは、幸運だったのかもしれない。

 

自分自身の経験に裏打ちされた「スポーツできなくてもモテる」

小学校4年生位からスポーツが出来る=モテると言う世界の中で生きるしか方法がなかったんだけど、球技が上手い・走るのが早いからって必ずモテたのか?と言うと、実はそうでもなかった。

 

確かにチヤホヤされることは多いだろうし、スポーツが出来る事で「かっこいい」と思われやすくなる。

でも、私自身が運動全然苦手&鉄棒の前転もやりたくないだった保育園時代に、大体のクラスの女の子とデートみたいにラブラブだったのはなんだったのよ?

疑問が浮かぶ。確かにチヤホヤされてるけど、彼らが恋愛に時間を割いているようには思えない。これは、一体・・・。

 

そんな中、サッカーがメチャクチャ上手い同級生が居た。

確かに体育の授業の度にチヤホヤされるし、

理由は「サッカーが上手いから」って単純明解。

でも、彼自身はそんなにモテている訳でもなければ、誰かと付き合ってる風でもない。

 

4年間一緒のクラスだったS君のことである。

サッカーが上手いだけじゃなくて勉強も出来る子だったし、見た目も決して悪くなかった。まぁ、ちょっとサルっぽかったけどさ。

仲も決して悪くなかったんで6年生の時に一度聞いてみたことがあったんだけど、驚いた答えが返ってきた。

 

『Sくん、女子にすごい人気じゃん?』

「そんなことないよ」

『だって、サッカー上手いし、女の子から好かれてるんじゃないの?』

「全然(笑)」

『え?それじゃ、日曜日にデートとかしてないの?』

「毎週練習ばかりだし、デートしても(相手の態度がつまらなくて)面白くないんだよ。そんな事言ったら、Takoだって結構人気あるんだよ?」

『そんなの初耳だ』

「○○さんに、△△ちゃん、それからNさんだってお前の事好きなんだぞ」

 

と言う訳で、あんなに授業中にチヤホヤされてはいるけど、S君にとっては付き合いたいほどの女性から好意は持たれてなくて、チヤホヤされるのも単なる迷惑でしかなかったと。

 

これには雷を打たれた衝撃が走りましたよ。

なんだよ、あんなにサッカーも勉強も人一倍頑張ってるSくんなのに、全然モテて無いなんて!!!

 

前述のNさんは・・・まぁ、思い当たる節はあるんですけど、小学校当時はうっとうしかったなぁと言う思い出しかなかったです。

中学校も同じだったので、その時にお互いの存在が励みになって良い思い出は少し出来るんだけど、それでもまぁ・・・小学校時代にとても好いてくれた相手に、私は

「邪魔」

とか

「関わらないで。つまらなくなるから」

などと、酷い事をいっぱい言ってしまったなぁと。

仮にそこで良い対応が出来たとしても、結局根っこの部分で「ずる賢くて嫌な奴」と言う所は大人になって会っても変わらなかったので、小学校の頃のNさんへの対応は間違っては居ませんよ。

今更あんまり後悔してもしょうがないでしょうし、あの頃のTako少年を褒めてやりたいです。

まぁ、もう少し小学校時代にイチャイチャしても良かったかもしれないんだけど、どうせ気分がコロコロ変わるNさんに振り回されちゃうの、分かっていたしね。

 

結構意外なことが女性の心に刺さるもの

一応小学校6年生の頃のお話を続きでしますが、クラス内でリレーを行うって言う授業が体育であったんです。

実は3年生の時に走っていたら急カーブで捻挫してしまい、それから走るのは鈍足になっていたんです。

そこからは地道にリハビリ。早く走ろうとすると襲い掛かってくる恐怖心と、2年余り戦っていました。自転車もスピード出せなかったし。

5年生の頃は鈍足なままなので、担任の先生は「Tako=走力G~Fランク」(パワプロ風)と考えたに違いありません。確かにそうだったもの。

 

ただ、6年生になってその恐怖心からようやく立ち直れるようになったんです。

前述の中尾先生の言う「身体が大きくなったら」の時期とも合って来たのですが、スイミングスクールでクロールや平泳ぎを泳ぐうちに、だんだん陸上でも早く走れるようになってました。

つまり骨盤と脊柱と、脚の動きが連動するようになってきたんですね。

走るフォームも劇的に変わっていきましたし。とにかくカーブでスピードを落とさなくてもそのまま走れるって言う、半年前までそんなの無理だと思うような、訳の分からないフォームで走れるようになってました。

担任の走力評価はそのままで、走力Aと言うよりSランクの女性・Hさんに、F~Gランクの女子1名と男子2名の鈍足がぶら下がるチームに振り分けられるのです。

しかしこの頃、私の走力はBからCランクに。もう一人の男子もEランクぐらいにはなっていたんです。つまりいろんな計算ミスが発生。

 

このチームで一緒だったHさんに好かれていた事を知ったのは、小学校を卒業してからでした。

チーム分けが発表されたときに、一番喜んだのは私。

理由も「Hさんがリードを作ってくれれば、このメンバーで負けないのはわかっているから」と言う、まぁ・・・救いようが無いほど勝利至上主義な発言でした。

デリカシーゼロですよね!

 

この時Hさんは「足が早くて一体何になるんだろう。身体も大きくて可愛さもないし、大会で勝っても誰も喜んでくれる訳じゃないし・・・」と言う葛藤がかなり強くあって、走るのがかなり嫌になっていた時期でした。

確かに女性にしては身体がガッシリしていて、足の速さは怪物級だったんですけど・・・。

で、私たちのチームは作戦が功を奏したのもありますが、連戦連勝でした。

Hさんが150m走って作ったリードは20mから30m。

それを他の男子と女子が75mずつ走っている間に約半分~1/3にする。最後は私がそのリードを150m走る間に使い切る。

リレーのアンカーを務めたのは基本的にこの時だけ。

高校時代・体育祭の捨てレースではアンカーしましたけど、正直上でも下でもどっちでも良い体育祭だったので気楽に走って良い思い出にはなりましたね。

 

Hさんはこのリレーで仲間に信頼される喜び以上に、私が最後にリードを使い切って逃げ切る度にハイタッチして、喜ぶその瞬間が嬉しかったと本人から聞いた事があります。

そう、最終ランナーでゴールしたあと。

ぜーぜーはーはーと息を切らしながら、Hさんにバトンを返す時に「Hさんが一生懸命走ってくれたお蔭です、ありがとう」って何度も伝えていました。

Hさんにとってはその言葉以上に、バトンを両手で大切に差し出す光景があたかもバレンタインでチョコを渡されていたように感じられたのです。

結局Hさんの秘めたる思いは私には届かず終いで、別々の中学校に行って会わなくなってしまったのですが・・・中学校になってから集まった時にその話を聞くことが出来ました。

「いやー、あの時ほど男性から、大切に扱われる気が今後の人生で起きそうな気がしない」とHさんは語っていました。

いやいや、そんな事は無いでしょう!

長い黒髪をなびかせて同級生をあっという間に置き去りにしていったHさん、あの時、あなたは確かに輝いていましたよ!

男子は皆、普段の生活態度も尊敬してましたもの。

他人の悪口を滅多に言わない良い子で、何事にも真剣に取り組む人だって。

・・・そう言えば運動会で優勝した時に、私と男子の有志でHさんに感謝の言葉を述べたなぁ。

「あなたと一緒に優勝したくて頑張りました。私たちは幸せです」って。

男と女が惹かれあう時って、それまでの経緯が知らないうちに出来ていたりするんです。それが良い方に作用する事って、あるんですよねぇ・・・。

 

 

実はもう一人好意を寄せてくれていた方が居たんですが、この方・・・。

なんと、学級委員を一緒に努めた私の天敵でもあった人。

同じクラスに4年間居ましたけど、良くケンカもしたし、良く泣かされました。ハッキリ言って嫌なヤツでした。

でも、仕事に関してはなかなか出来る人だったので、学級委員の時はケンカをなるべくしないように気を使いつつも、とにかく仕事が上手く回ってくれるために私は悩んだり、動いてたことを昨日のように思い出します。

後日談で複数の女子から「どんな事があっても、自分の出来る部分を曲げずに評価してくれたからTako君のことは好きなんだけど、いつもあんな風にけんか腰で話しちゃうから嫌われてるんだろうな」と言うことを聞きました。

前述のリレーで多少足が早かった時のイメージを、大きく膨らませてくれたのもあったようですけど、Hさんがあきらめる事になったのはこの学級委員が居たからと言うのは複数の女子から聞くことになります。

 

勉強がメチャクチャできるOさんという女子と、Tさんというクラスメイトの女子が席が近くに居たんですが・・・二人からは「Takoくん、他の女の子が好きなんだろうけど、Hさんを助けてあげた方がいいと思うよ」って忠告を受けたほどです。

裏で何があったかは想像に難く(かたく=むずかしく)ないんですが・・・つまりまぁ、女子の間でイジメがあったと言う事ですね。

学級委員の名誉のために申し上げますと、それほど他の女子に取られたくないって言う意識が強かった故(ゆえ)の行動です。

ただ、それがNさんに対して行かなかったのは・・・まぁ、Nさんとは小学校低学年ですでにキスしたりとか、姉同士が仲が良かったからとか、

学級委員には埋められないアドバンテージがあったんですよね。

 

それ以前に私は別のクラスメイトにゾッコンでして、振り向けばいつでもデートできそうな女子を見向きもせずに、いつまで経っても見向きもされない女子にドキドキしていた痛い6年生だったなぁと。

クラスの複数の女子の恋心に火をつけてしまった、授業リレーの「鈍足だったはずのTakoが、アンカーでクラスの走力Bランク選手と対等に走れている」と言うインパクトは絶大でしたね。

しかも赤っ恥かいたけど、好きなことをしてたら全国大会にも行かせてもらったし。

 

モテるかどうかで言えば、スポーツはそれほど大きな要素では無いんです。

ただ、心の底から走ったり投げたり、蹴ったり泳いだりしている動作を楽しめているかどうか、それが相手の心を動かすと言うことなんでしょう。

そのためには、身体を動かす意識が変わらないといけないと言う事が分かっていれば、運動が苦手でも嫌いでも全然良いんですよね。

 

時代が平和なら太っていても許されますし、痩せなくてはいけないと言う事もありません。

小学校のうちは楽しむ機会に触れられたら、そんなチャンスを目一杯に楽しんで欲しいなと思います。

 

学校の部活は苦しくてもやらなきゃいけなかったり、個人の自由が許されませんからね。

やることで付く忍耐力も、本当に万能なモノでは無いこともありますし。

 

それを兼ね備えている人は凄いなぁと言う尊敬の念だけあれば、良いんですよ。

だから、女性にモテるために男子がスポーツをする必要性は、ハッキリ言ってないんです。

 

お腹が空いたからって、料理を食べても・・・

まさか箸や食器を食べることはしないでしょう?

それと同じレベルですよ。

指を加えるよりも、楽しそうに好きな事をしていたほうが、モテるんだよ。

急がば回れ、と言うじゃないか。

 

 

boys be aspiration

少年よ、希望は持っとけ

その通りの未来がやってくるから

勉強は、ほどほどに頑張っておけば、良いんだよ

コレを書いているのが9月のとある土曜日。

つまり、普通の公立小学校で言えば2学期が始まって、かなりだるくなっているはずの日だ。

10歳ぐらいだった私自身に、もし伝えるなら、まずはコレ。

 

勉強は、頑張り過ぎなくて、よろしい

 

やらなくて良い、とは言っていません。

そこは、今よりもう少し頑張ってやってくれ!としか言えません。

 

今すぐにでも宿題をサボりたい気分の小学生・中学生のみんな、

残念だったねぇ。ゴメン。

 

でも、イジワルでそんな事を言ってるワケじゃないんだ。

勉強は少しでも出来た方が良いんだけど、理由があるからなんだよね。

 

なので「学校には何をしに来ているんだ」と

「勉強は何のためにする必要があるの?」と言う質問に、

私自身がちゃーんと答えられなかった悔しい経験から、まずはこの記事を書くことにしました。

 

学校には状況の把握のために来ています byバシ君

小学校のクラスメイトに、バシ君って子が居ました。

どちらかと言えばガリ勉タイプで、テストでは毎回1位。

 

バシ君がクラス1位じゃないとしたら、風邪をひいて本調子じゃない時ぐらい。

でも、バシ君がものすごく努力家で、真剣に勉強してるのを僕も良く見ていたし、知っていた。

逆立ちしてもバシ君に勉強で勝つことは出来そうに無いなぁ・・・って思っていたし、バシ君の「テストで100点を取らないとお父さんお母さんに怒られる」って言う状況と覚悟(かくご=心に決めた思い)は本当にピリピリしていた。

とても小学校3年生とか4年生ではない雰囲気(ふんいき=オーラ)だったし、あきらかに異常(いじょう=ぜんぜんちがっている)だった。

 

バシ君は努力しないクラスメイトにキツイ事を言っていて、チビまる子ちゃんで言う丸尾君よりは永沢君みたいなタイプだったけど、僕たちが知らないことを先に調べてくれるから、とっても頼りになった。

そんなバシ君は勉強以外のことに時間を取られる事を嫌っていて、ケンカになりそうな言葉遣いで「バカは今よりもっと勉強しろ」ってよく言ってたけど、僕たちはそれで喧嘩する事はまずなかった。

それだけクラスメイトのみんなは、バシ君の努力する姿勢を心の中で尊敬するぐらいに理解していたし、バシ君の時間を無駄にする事がどれだけバシ君の辛い表情を作ってしまう原因になってしまうのかも、よーく分かっていた。

 

だから下校前の掃除当番とか、給食当番とかはやるけどそれもサボりたい(サボタージュしたい=意味はお父さんに聞いてみなさい)モード全開で臨む(のぞむ=ものごとに取り組む)から、一部の女子からはバシ君の評判は事実悪かった。

 

ただ、バシ君はそんな女子達からも尊敬されるようになった代わりに、女子達の「当番をサボる」って言う評判も覆す(くつがえす=それまでとちがう結果になる)ようになった。

そのきっかけが「学校には状況の把握のために来ています」と言う決め台詞(きめぜりふ=力のある言葉)だった。

 

当時の担任だったフネ先生と言う熱血先生は、授業中に全力で取り組まない生徒には容赦(ようしゃ=甘くてゆるす)をしない先生だった。

さすがのバシ君もたじろいだり、おじけづいてしまう場面があるほど、フネ先生はスパルタな先生だった。

 

そのフネ先生が、ある日算数の宿題を忘れた女子を叱っていた。

なんで宿題をやってこなかったのか?って。

フネ先生は熱血でスパルタだけど、児童である僕たちの「今はこれが良く分からないんだけど、ちゃんと知って役に立てたいっ!」って言う考えをとても尊重してくれた。

その女子たちは「どうやればいいのか分からなくて、出来なかった」と言う感じだった。

ちょっと泣きそうになっていたけど、確かにむずかしい宿題だったと思う。

 

そこでちょっと驚いた事があった。

なんと、バシ君が宿題を完全には終わらせてなかった。

教室がザワついた。

 

みんな、「え?」「ウソ?」みたいな感じだったけど、バシ君はサボるとかそう言う理由で宿題が出来なかった訳ではなかった。

勿論体調が悪い訳でもなければ、お父さんやお母さんの手伝いで宿題をやっているひまが無い!なんて事でもなかった。

バシ君のお兄さんに、バシ君は宿題が分からなくなって教えてもらおうと思ったそうだが、その宿題で途中まで書かれた計算式を見て、お兄さんはそっと

 

明日学校に言って、ここまでしか出来なかったと正直に言ってきなさい。

先生は怒るかもしれないけど、ここで分からないまま止めておくのが大切だ。

明日は、起こられてきなさい。 

 

と、バシ君は言われたそう。

宿題が終わらなかった事で、かなり落ち込んだみたいだ。

 

登校した私がすぐにバシ君に駆け寄るぐらい、とんでもなく暗い表情をしてて心配になったのを今でも昨日のように思い出す。

『Takoちゃん、算数の宿題終わった?』って聞いて来る声も弱々しい。

私は分からないなりにやって間違っている宿題を持っていたが、正直むずかしすぎて分からないと言う状況だった。

「やったけど、間違ってるかもしれないなぁ」

 

私も姉にこれを解いてもらおうかと思ったが、姉が中学校の部活を終えてグッタリしている状況ではさすがに酷(こく)なので、もうこればっかりは宿題がゼロ点でもいいやと開き直って登校したのである。

フネ先生に怒られるのか・・・

 

でも、前日談としてフネ先生は笑顔で

 

 途中まででもいい。だから、自力で挑戦してみろ

 

そうして宿題がちゃんと分からなかったクラスメイトが大多数居る事態になった。

まだインターネットも無ければ、スマホもない時代。

答えがあるとすれば近所の図書館に行くか、せめて兄姉が居れば・・・ぐらいなものだったけど、そう言う家庭ばかりでもなかった。クラスの1/3以上は一人っ子だったし。

 

それまで何が何でも答えを出してきていたバシ君を含めて、誰ひとり算数の宿題を正しく解いている児童はいなかった。

つまり、皆間違えていたのだ。

 

まぁ、皆でフネ先生の授業をちゃんと理解していなかったので、皆で叱られてからもう一度学びなおす事になったんだけど、

そこでフネ先生も疑問に思ってバシ君に聞いた。

 

 ・・・なぁ、バシはお兄さんとかに、何か聞かなかったのか?

 

するとバシ君は、お兄さんの言葉を引用して

『いえ、兄からは なぜ出来なかったのか。

その原因を間違えずに理解する時だ。

学校には現状の状況の把握をしに行っているのだから。

・・・と言われました』と、肩を震わせながらフネ先生に答えた。

 

あの、バシ君の悔しそうな表情、今でも忘れられない。

大粒の涙が、バシ君のメガネからこぼれ落ちるのも・・・

 

バシ君のお兄さんは地域の進学塾でも話題になるような勉強の出来る人だったので、そのセリフを聞ける私たちは幸せ者だった。

それはフネ先生も同じ見解(けんかい=その人の考え)だったので、フネ先生は少し考えてから問題の間違えやすい部分で間違えないように、繰り返し繰り返し、全員が分かるまで教えてくれる事になった。

 

こうして皆そろって難しい問題を解けるようになったのもあり、色々と叱られたりもしたが、バシ君のおかげで勉強が出来る事出来ない子も

 

 学校には状況の把握をしに行っている

 

と言う考え方が出来上がった。

今どこまで出来ているのか、何が出来ていないのか、

出来るようにするためには何が知りたいのか、

そう言ったことを確認することが、今まで以上に勉強が楽しいと言う雰囲気作りをしてくれたのである。

あの時の4年1組は、目的のない生徒が目的に向かって進みだす・・・

そんなエネルギーに満ち溢れたクラスだった。

 

だから4年生から5年生に上がる時、クラスに一人だけ居た邪魔者と縁が切れること以外は、本当に皆と離れたくなかった。

(結果として5・6年のクラスはとても良かったんだけどね) 

 

バシ君は当番をサボると言う悪評があったが、その女子達からしてみると「何もしてくれない」と言う間違った認識(にんしき=そう思っていること)があっただけ。

実際のバシ君は当番に参加する時間が遅かっただけで、それまで熱心にノートをまとめていたりしてただけだった。

だからバシ君がちゃんと当番には参加している事を、一部の女子には正しく認識してもらうと同時に、バシ君のまとめたノートや知識をその女子達に優先的に教えると言うことを、学級会を含めてローカルルールで決めることにした。

 

結果としてバシ君はノートを取りまとめる事が上手くなって、当番に遅刻してしまう事が少なくなった。

それから、悪評を立てていた一部の女子とは仲良くなって、

 

あれ?

いつの間にかバレンタインにチョコわたしてんじゃんか!

って事になってた。

なーんだよ、あの二人!(笑)

 

それまで3年生の時は「学校に給食を食べに来てます」なんて平気で言うようなクラスだったし、話の面白いホンダ先生の温かい指導方針に、思いやりの心をすくすくと育ててもらったけど、フネ先生は真逆のスパルタだった。

「今の状況を把握する」と言うテーマを持ってから、皆が自分勝手な発言や枠(わく)を徐々に捨てる事ができたって経験は大きかった。

 

つまり一人で学習していて、勉強が出来ていないとしても

 そこまで落ち込まなくて良いんだよ

と言いたいし、仲間が居ると勉強がスイスイ進む事もよくあるって事がある。

 

その時に無理ってあまりしていないんだよね。

 

 

さて、その次の話もしておかなきゃね。

勉強は無理してするもんじゃないんだけどって話になると、次は・・・高校時代のお話。良い先生に会えると言うのも、高校を選ぶ時のポイントにしてみてほしいぞー。

 

勉強とは道具なんだぞ byごとー

今度は小学校から一回飛んで、高校時代のお話。

当時、「ごとー先生」が国語を担当してくれていた。

 

授業自体はそこまで難しくなかったんだけど、難しくないことをなかなか上手に理解できないおバカな生徒もたくさん居て、その生徒に対する教え方が面白かったんだよね。

 

具体的にはわざと、テストの点数が低いか普通ぐらいの生徒を巻き込んで、みんなが分かっているのを確認するのが上手かった。

そのためには、答えられそうな簡単な質問を挙手で答えさせる。

そこそこテストの成績を稼げる私や、クラスの上位の生徒が分かっていても、挙手をするんだけどまず指されることは無かった。

その代わり、ヒントを与えて答えさせるのを、あえてムードメーカーの生徒にやらせるために差す。

 

自分で「分かった!」ってなるまで考えさせてから、答えさせる。

時々生徒がトチる(間違える)のは織り込み済みで、とにかくクラス全体でおちこぼれが出ないように、楽しませながら考えさせる&全員が参加している空気を出すと言う、なかなか高等技術だったものだ。

 

たまーに難しい質問が来る時もある。

そう言う時は私とかを含めて、国語で85点とか90点を取るような生徒を一人ひとり指してくるんだけど、これがまた絶妙な匙加減を見せてくれた。

当時、僕を含めて国語で満点に近い点を取る5人は見た目も個性も、考え方も全然バラバラだった。

学年1位と4位は物静かな秀才タイプ、口数はあまり多くない。明るい性格だったけどね。

学年2位は落ち着いた天才肌、とにかく直感が鋭い。

学年3位は努力型の天才、上手くなっていく家庭がとても綿密。

学年5位を争っていたのが容量良くて騒がしくいチャランポランだった私と、

劣等感の塊だったイケメンのコーちゃん。

 

だから、誰にどの順番で聞くのか、ごとー先生は良く考えてた。

 

で、優等生タイプで締める事もあれば、僕のような「かなりチャランポランに授業受けてるけどテストでは点数を取って理解もしている」タイプで締める事もある。

そこでクラス全体の落ちこぼれを出さないように、難しい質問にはお手上げで思考が停止しているクラスメイトにどう理解させるのか。

どんな風に考えることが正解に近づけるのか。そのイメージを共有させたかったんだろうね。

ここについては、ごとー先生はとにかく「ムードメーカーが理解出来ているのか」をちゃんと見逃さなかった。

だから私は先生に向かって回答するよりも、意図を汲んでムードメーカーのどこが分からないかを確認することもしばしばだった。

「ごとー先生、ここをもう一度みんなのために解説して下さい。私も知りたいんで」

『そうか。Takoにそう言われたんじゃ俺ももう一回やるよ』

 

授業中に手を上げたり差されて答えると、閻魔帳(えんまちょう=先生が仕事で使うノートで、点数を足したり引いたり出来る)にプラス何点みたいなボーナスが逐一(ちくいち=即効で、いちいち)加算されていたんだけど、

高校時代はそれがバカにならないプラス要素だったので皆「我先に!」と奪い合って取っていった。

しかしそうは言っても、テストを含めた差があまり出来ないような授業内容(つまり皆が100点取れちゃうような簡単なモノ)だったので、差別化をつけるとしたら

 

 落ちこぼれを出さないようにする

 

と言う軸に如何に貢献できるかを競わせたのだ。

ごとー先生、恐るべし。

そしてムードメーカーが、成績上位者の助けもあって難しい質問を

「あ。それって、こう言うこと?」

と理解し、教室中が拍手と安堵に包まれて終わると言う、競争しているんだか助け合ってるんだか、良く分からない授業がなかなか面白かった。

 

 こう言う風に解くんだぞ、

 こう言う風に考えていくんだぞ、

 ここを誤解しないように憶えるんだぞ

 

更に付け加えて

 理解度を更に深めよう

と言うスタンス(=姿勢のこと)。

 

いずれにしても口癖のように「勉強は一種の道具、道具なんだぞ。だからどう使うかなんだ」と叩き込まれるのである。

 

分からなかった生徒が分かるようになるのも道具の使い方。

既に理解した生徒が、頭の中で咀嚼(そしゃく=噛み砕いて分かりやすくする)して説明しやすくしておくのも、道具の使い方。

閻魔帳にポイントを加算するのも、道具の使い方。

 

でも、そのおかげでクラスメイトの無意味なケンカはほとんど無かったし、

いじめは軽微(けいび=ちょっとしたこと、わずかなこと)なものはあったにしても、恐喝(きょうかつ=他人の財産を奪い取るために恐怖感を与える)とかは、なかったワケ。

誰かが誰かの役に立っていると言う認識(にんしき=イメージ)を作り上げ、ちょっと難しめのテストにもクラス全員で赤点(あかてん=40点未満、39点以下のこと)を回避して結果を出すと言う、

スーパー国語教師・ごとー先生のスゴ技を体感するのでした。

 

 

ちなみにそんな完全無欠と思える「ごとー先生」にも弱点が3つあって、ひとつは熱狂的巨人ファンで、巨人が負けた翌日は採点が渋い。

困り果てるぐらい閻魔帳の加点が渋くて、当時強かったヤクルトファンとか横浜ファンが多いクラスなのに、巨人が勝ったらひと安心してしまうと言う、ヘンテコな現象が起きてしまうのがなかなか一筋縄(ひとすじなわ=一本調子、すんなりと行く様子)ではいかなかったところ。

 

二つ目は若くしておでこが広かったこと。

つまりハ●まっしぐらだった。まぁ、弱点と言うよりも勿体無かった感じ。

 

そしてなにより三つ目は、結構武道家な印象もある先生(剣道部の顧問)だったのに生徒が所用で、ごとー先生のお宅へ電話連絡した際に起きた伝説。

ごとー先生のお母様がお電話に出られたので、取り次いでもらったのだが

「○○ちゃん、電話よー」

「はーい、ママー」

と受け答えしたのがモロに聞こえてしまい、生徒から生徒へ伝言ゲームで瞬く間に拡がってしまったことである。

 

年を追うごとに後退する生え際と、マザコン疑惑が拭えないまま彼女が出来ないと言う完全無欠な「ごとー先生」

高1ぐらいまでは

「あー、俺も彼女が欲しいぜ」

なんてジョークも授業中に軽ーく飛ばしたのに、高3で臨時に授業を持ってもらった時は

「・・・はぁ、俺はもう結婚も諦めたよ・・・」

なんて弱音を吐いてしまっていたのが運のツキ。

先程の電話をした生徒を含め何名かがお母様の真似をして

 

「そんな事言っちゃダメよー、○○ちゃーん」

 (野太い声数名)○○ちゃーん(^0^)/

「また、お見合いしましょうよー、○○ちゃーん」

 (野太い声数名)○○ちゃーん(^0^)/

 

・・・って先生をチャン付けで呼んでイジるのなんの。

失敗したお見合いの話も約2年ぶりに蒸しかえすんかい!(笑)

恩を仇で返すような、男子高あるある。

 

先生はまるで友人か何かみたいな存在になってしまうもんですけど、敬意あればこそ?の愛のあるイジりが、生徒と教師の信頼関係を感じさせる瞬間でした。

 

 

結論:勉強はほどほどに頑張っておけば良いんだよ

・・・とまぁ、大きな二大エピソードを掲載いたしましたが、

勉強は頑張りすぎなくて大丈夫。

もし寝る間も惜しんで頑張って勉強するなら、進学する高校や大学に誇りを持つ目的ぐらいしかないでしょう。

でもね、学校には給食を喰いに行くだけじゃ、もったいないよって事ですね。

 

それよりも楽しんで授業を受けて、参加すること。

出来れば参画(さんかく=参加しながら提案して進めていくこと)が出来るようになれば良いんだけど、

最初は少しでも内容を理解して、ドンドン質問しながら学んでいければ良いだけなんです。

 

点数は低いよりは高い方がいいけど、それは楽しんで授業に参加していれば自然についてくることだったりする。

勝手に自分本意(じぶんほんい=あまりにも自分勝手な様子)であきらめて、授業を聴かないなんてしなければ、理解する能力はすこしずつでも成長していきます。

 

細かいところはまたお話しするけど、今、どこが分からないのか。

そこをハッキリさせるために学校に行こう。

 

そして、あまりにも酷い同級生が居たら、逃げて良い。

イジめられに登校しに行っているんじゃないんだからね。

もしも勉強していて分からないところは、学校ではないところでももう一度挑戦してみよう。分かっている人から教えてもらいながら、上手く補っていこう。

 

 

boys be aspiration

少年よ、希望は持っとけ

その通りの未来がやってくるから

著者プロフィール

ハンドルネーム:Takowasabi

 

出生地:東京都文京区

出身地:東京都豊島区

    東京都板橋区

    埼玉県戸田市→その後、上場企業の技術系部門に就職

 

最終学歴:私立高校卒業

 

大まかな経歴:

保育園時代→親が迎えに来てくれるのが遅く、ほとんど一人で遊んでました。

たまに仲の良い友達と園内で遊んだりしましたが、他人に遠慮しなきゃいけないのが苦痛で、周りからゴマをすられるのが当たり前だと思ってました。

よく言えばガキ大将みたいなポジションが大好きでした。

毎日のように・・・では無かったですけど、女の子から求められていっぱいチュッチュ、チュッチュとキスしてました。

今思うとなんでなのかは分かりませんが、そう言う空気を掴むのが上手かったんでしょうね。両親が毎日していたからそれが当然みたいなのも大きかったのかなぁと。

お遊戯が上手い方ではありませんでしたが、少しでも上手にやろうとはしてました。

歌は大きな声で歌うのが疲れるので、音程を合わせたいなーと考えて歌ってました。

運動が下手だったので球技の時間は苦痛でした。そのくせ走るとクラスでもかなり早かったのは未だに不思議です。

この頃から体温は36度を超えませんでしたし、今でも平熱は低いままなんです。

マイコプラズマ肺炎などでちょくちょく入院していましたが、病気で苦しかった痛かったと言う記憶はほとんどありません。

 

小学校時代→同じ保育園の子がほとんど居ませんでした。だから最初は誰とも遊ばず、担任の先生を心配させました。

勉強は好きでも嫌いでもありませんでしたし、飛び抜けて上でも下でもありませんでした。ただ、家にあった百科辞典は読みまくって、暗記してるんじゃないかって思うこともありました。

保育園の頃に比べたらモテエネルギーは減りましたが、バレンタインにチョコをもらうことはありました。貰いたくない相手からもらってしまい、困ったのと悔しいのが入り交ざって泣いたりもしてました。

と言うか、とにかく泣き虫でしたね。

このまま泣き虫が治らないんじゃないかと思うほど、良く泣いてました。反動でそのあとなかなか悲しくても涙が出なくなる時期を迎えるのですがね。

運動は苦手でしたし、自転車に乗れるようになったのが小学校2年の時。

水泳で15m泳げるようになったのが、小学校5年生の時。

跳び箱の6段が飛べるようになったのもようやく小学校6年生の時。それなのに走るのが速いというのは変わらず。

それで得した事も若干ありましたが、足を更に早くしようと言う気持ちはこの頃から「どうでも良い」と言う割りきりがありました。

運動するクラブ活動よりも、興味があったことがいっぱいあったので、それが良くも悪くも作用したと考えてます。だから、スポーツが出来ない男子は何も落ち込まなくていいよと言いたいのです。

好きになったら好きなまま楽しめばいいだけなんですし。

一応学級委員を1期(半年)、委員会の委員長も1期(半年)務めました。

 

中学校時代→三つ上の姉と入れ替わるように中学校に入ったら、姉の担任が私の担任になると言う見事なスライドのおかげで、何にしてもスタートそのものは大変ではありませんでした。

むしろなりたい職業に付くためには希望の高校に進学すると言う既定路線が出来上がっていたため、それまでにどうするの?を毎日のように考えてました。

逆算して如何に楽して効率よく内申を獲るのか。

もう、姑息なぐらいに上手かったですね。

同じ小学校出身の子が3割ぐらい居たので友達づきあいは楽でしたが、違う小学校出身の子達が色々とキャラクターが濃くて、良くも悪くもカルチャーショックが大きかったなと思います。

部活では部長、委員会では委員長もしていましたし、行事の実行委員も兼ねていたので、それはもう幅広く活躍していました。

校内で「文化祭の司会の人」ぐらいの認識はありました。

私の事を知らない人間を探す方が難しいぐらいで、後輩からは「Tako先輩おはようございます!1年のフロアに何か御用ですか?」ぐらい、確実に挨拶をされるようになってました。

勉強は恋の病で伸び悩みましたが、恋の病から吹っ切れたあとは・・・、まぁ可でもなく不可でもなく。

希望の高校に推薦で進学できる程度までには回復させましたが、姉に比べたら全然勉強して居ないので、前述の担任からは「おかしい、こんな成績のはずが無い」「もっと上を目指せと」と、結局卒業するまでよく言われてました。

この頃は学習塾には行かなかったですね。中学校の裏手が実家のマンションだったので、土日ならまだしも遠くに出かけることへの興味も無かったですし。

そんな姉は上位15~20%には確実に入っていましたから、比較して丁度真ん中付近でうろついているのが不思議でしょうがないと。

(単発の小テストでは相当上の順位をとっているのに、本番のテストで全然奮わないとか、もう何やってんだろうって言うレベルでした。)

でも、その原因がアウトプットを怠って頭の中が整理できていない&理解が間違っていただけと、先生方も気が付いていたみたいでしたね。

最後の学年末試験では姉と同じぐらいの順位にしておきました。さすがに推薦合格取り消しは免れたかったですし。

行動範囲が広がり、出掛ける時には目的を更に極めるようになりました。そんな中、楽しそうに輝いてる大人たちに引かれてあるサークルに入る事になるのですが、それはまた追々。

遊びと勉強の両立を求められる領域になるとは思っても見なかったので、当初の計画は完遂しましたが唯一の計算違いは「思っていた以上に遊びが面白くなってしまった」ことでしょうか。

 

高校時代→都内にある男子校に入ります。共学でも良かったんですが、就職したいと考える私には過不足の無い環境でした。

サークル優先のため部活には入らず。唯一入部を考えた部活はあったんですが、その部活を仕切っている先輩があまりにもアホと言うか、校内に1500人居た生徒の1300人ぐらいからブーイングをもらうような発言をする方だったので、さすがに諦めました。

あんたとはやってられんわ、私はそこまで暇じゃないし。

この高校の推薦試験は見事なペーパーレス。つまり、何か問題を解いたと言う試験ではありませんでした。

かなりお馬鹿な高校の、しかも普通科では無いマニアックな科だったので、マニア&オタクとそうでは無い子が混じるというカオスなクラスでした。

どれぐらいカオスかと言うと、読んでるものがとにかくオカシイ。

休み時間に皆趣味の雑誌を読んでいるんですけど、バス・飛行機・電車は勿論、スポーツ雑誌も華やか。

更に競馬新聞読んで赤ペン加えてる友達も居れば、ファッション雑誌読んで髪を茶髪にしている子も居たりと、まぁ・・・とにかく学校よりも学校が終わった後の事を考える人が多かったです。私もその一人ですが。

とにかく「リーダーシップとは何か」を考える3年間でした。兄弟親戚を含めても末っ子なのに、長男の要素を突き詰めるとはコレ如何に。

何にしてもお馬鹿な生徒にモノを教えるのが上手い先生が数名居たのが救い。おかげで商業簿記の3級は級友のほぼ全員が難なく合格できましたし、商業系の検定にチョコチョコ合格できたのは大きかったです。

ちなみに商業科もあった(私の姉も商業高校の商業科卒です)のですが、マニアックな私たちの課の方が、商業検定の合格実績が段違いと言う結果に。今母校に商業科はありません、そりゃ仕方が無いか。

委員会活動はちょっとだけやりました。

アルバイトは学校の紹介でやったものと、地元の郵便局で年賀状配達を行ってました。

郵便局は完全に姉と同じコースですね。バイトが結構楽しかったと良い話しか聞かなかったんですが、確かに外の配達と中の仕分けはそれぞれ面白かったですし、中の仕事向きなんだなとその時良く分かりました。

遊ぶ金&サークル活動をする上で必要な資金はある程度確保したいのもあり、時給1000円以下のバイトはやらなかったのですが、そのこだわりもちゃんと達成。

あの時の局員の皆さん、バイト先のお兄さんやオジちゃんオバちゃんたちには、大変お世話になりました。

 

上場企業時代→結局は退職する事になるのですが、中学校1年の4月に描いていた希望が叶って上場企業に就職し、憧れのポジションを得る事になります。

そのあと色々ありまして本日に至る訳ですが、このブログでは私の人生体験から以下のテーマを中心に、これから10代を色濃くしたい皆さんへのメッセージを送りたいと思います。

 

  • 勉強は程ほどで良いよ
  • 他人を悲しませない方が良いよ
  • どうせなら慕われる人間になろうよ
  • 下手でも好きなことをしようよ
  • いろんなアンテナをバージョンアップさせようよ
  • 興味のあることを楽しんで良いよ
  • あなたはきっと素晴らしい人なんだよ
  • もっと深く考えると得られるものが大きくなるよ

 

こう言うことをお話していく中で、

ヤケになりそうなあなたが思いとどまってくれたり、

湧き上がってくる不安を落ち着かせることが出来たり、

やりたいことに集中して良いんだと自身を持ってくれたり・・・

そう言うお役に立てたら良いなと思ってます。

 

著者が10~19歳だった当時の時代背景をそのまま記載するので、2020年ごろにそっくりそのまま役に立たない部分もあるかと思いますが、

そこを読み換えてアレンジしたあなたの勝ちと言うことです。都合よく解釈(かいしゃく=あなたの考えで理解すること)をして、周りに迷惑ではなく感動を撒(ま)き散らしてもらえればオッケーですよ。

 

では、少しずつ思い出話も交えながら記事をアップロードしていくので、「希望は持っとけ」と他人を励ませる人間になるヒントをドンドン持って帰ってください。

 

boys be aspiration

少年よ、希望は持っとけ

その通りの未来がやってくるから

前書き

もし、タイムマシンが合ったら・・・

未来に行きたいですか?

過去に戻りたいですか?

 

私なら未来を見てみたい

過去の方がよさそうな気はするんですが、それでも未来を見てみたい

 

そう思ったきっかけは、ブログと言うメディアがあることだったんです

 

ここに今まで教えてもらったことを書けば、タイムマシンで過去に遡る事はできなくても、

誰かがその足跡をなぞってくれるだろう、と

 

なので、もしもタイムマシンでは過去に行くしかできないとなったとしたら、

伝えておきたい事をまとめて男子が10歳以降大人になっていく過程で、

恐らく知りたいであろう事をまとめることにしました

 

まとめるのは大きく分けて3つの目的があります

①自分自身の足跡を再確認

ぶっちゃけ回顧録、自己満足です

 

②これから10代を生きていく皆にも役に立てて欲しい

理由は記事内で色々と書きたいと思いますが、とにかく2000年以降露骨な「10代は20代以上の養分」となってしまう可哀想な青春時代が多すぎます

それが少しでも回避されれば良いなと思っています

 

③30代以上のお母さんにも読んで欲しい

男子の事を知っているようで、知らないことも多いお母さん世代が、ウチの子が・・・と考える時のヒントになってくれたらいいなと思っています

お母さんは全てを完璧に出来なくても良いんですが、男子の人格の大半は母親の行動や性格が反映されるものなので、

「男子は相変わらずバカだなぁ、アハハ」

ぐらいの気軽な気持ちで読みながら、こんな男子に育てるなら?

あんな男子にならないようにするには?

って考えるキッカケにしてもらえたら嬉しいです

 

と言う訳で、次の記事でこのブログを書いていく著者の自己紹介を行う事にします